Death or Glory
2018年04月16日 [色々なこと]
お疲れ様です。院長です。
4月16日の月曜日でございます。
4月も折り返しから、後半に突入って感じで春うららな毎日でございます。
これから徐々に気温は上昇、湿度も上昇、次に来る季節と言えば梅雨〜夏。
梅雨に入れば、もう夏になってくれと思うんですが、夏は夏で暑いもんねぇ…。
とか、こんなこと毎年言ってるんですが、ずっと死ぬまで夏は暑いんでしょうねぇ(笑)
わたくし4月生まれで、生まれて3ヶ月後に、初めての夏が来たわけですから、今年で51回目の夏を迎えるんですよね。
後、何回、夏を迎えるか分かりませんけど、この繰り返しが人生なんだよね。
とか、哲学的な雰囲気を醸し出してますが、今日はそんな哲学チックなお話でもひとつ…。
つい先日、ブログでこんな記事を書きました。「脳内映像」
この話は、AIの技術を駆使し、脳内を映像化しちゃおうって話なんですけど、詳しくは読んで。
で、今日の話に繋がる部分は、ここで書いてた「死の定義」って部分なんですよ。
一応、「死」とは臨床的には、「自発呼吸の停止」「心拍の停止」「瞳孔散大」の三つで決定しています。
これを「死の三兆候」と呼んだりしてるんですが、ここにいわゆる「脳死」って概念はありません。
では、「脳死」ってどういう定義かと言うとこれはあくまでも「臓器移植法」における定義付けであり、そもそもの「死」ではなかったりするって話をしてたんですが、今日はそこからさらに突っ込んだ話でもしてみようかと思います。
では、「臓器移植法」における脳死の定義として、「大脳および脳幹(中脳、橋、延髄)の不可逆的な停止」って表現があります。
今日はこの辺にスポットを当てたいんですが、「不可逆」という言葉の中には、もう元のような状態には戻らないって意味があります。
ですから、簡単に言うと「脳」がもうもとには戻らない状態だから、ヒトとしての機能を果たせなくなる。
って意味合いなだけで、決して死んではないんですよ。
死んでないからこそ、臓器を移植できたりするわけで、そこらへんの線引きは非常にデリケートだと思います。
例えば、患者が臓器移植をしたいという意思表示のある人だった場合、脳死の段階で「移植」にうつり、そこで完全な「死」を迎えます。
ね。もうすでにややこしいでしょ?
しかも、ここ数年、人が死んでから脳細胞が劣化ゆえに復活できなくなる地点を通過するまで、数日かかるという事が証明されてきました。
では、その人は死んでないのか?
となると、厳密に言えば「死に向かっている」状態と言えるかもしれません。
実はヒトの細胞は、人の死である心停止に対して、これまで考えられてきた以上にずっと柔軟なようで、ワシントン大学のピーター・ノーブルって教授は、2017年にマウスとゼブラフィッシュの実験で、死後も1063個の遺伝子が活動したままであることを発見しています。
しかも、その一部は死後最大4日間その状態で、活発になったものすらあったといいますから、まだ「死んでない」と言えなくもない。
死後24時間後にサンプルを採取すると、遺伝子の転写が増えている事があるらしいですから、驚きです。
ノーブル教授らは、特定の動物細胞が死後、数週間生きていることを発見しました。
この研究は、人は一斉に死ぬのではなく、異なる速度で各部分が徐々に死んでいくことを示唆しているわけですよ。
なぜ細胞によって死への弾力性が異なるのか確かなことは分かってはいません。
でも、最近の研究では、終末医療期の患者4名の生命維持装置を外し、その後の経過を観察したところ、死亡が診断(瞳孔散大、脈拍停止、心停止)されてから10分未満の間、デルタ波バーストが持続されたことを1名で確認したという報告もあります。
つまり、この1名は、通常深い睡眠時に検出される脳の電気活動を「死んでから」も行っていたわけです。
この現象が、臨死体験に繋がってるんじゃないかという研究者もいるようで、少なくとも「死」を診断されてからも「意識」がある可能性は否定できないようです。
難しい話ですが、これからいわゆる再生医療の技術が向上していく中で、細胞レベルの生存でも復活させることが出来るかもしれないわけですよね。
クローン技術がもっと安定的に確立すれば、「死」を迎えてからでも、最後の細胞からまた復活するって事も可能になるわけです。
では、果たしてこれを「医療」と呼んでいいものかどうか…。
死の三兆候を迎えた人でも、生きている細胞が一つでもあれば、そこから復活させることが出来るとしたら、もう人には死はなくなってしまいます。
そして、復活させるだけの技術が確立してしまったら、復活させないということは「殺す」ってことになりはしないかい?
今の医療でも、手を尽くせる間は、どんな状況であれ、患者を生かそうとするでしょう。
それと同じ事ですもんねぇ…。
こう考えると、これ以上の医療技術の向上は、何か破滅へむかってる気がしてならない院長でした。
な。哲学的やったやろ?
こういう話になるといつも言ってますが、寿命を延ばしすぎるのはしんどいと思うんですけどねぇ…。
前にも言いましたけど人生50年なら、年金の心配もせんでよかったんやけどねぇ(笑)
こうも寿命が延びたら、可能な限り働かんとアカンやんねぇ…
あーしんど(笑)
ではまた〜
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院
4月16日の月曜日でございます。
4月も折り返しから、後半に突入って感じで春うららな毎日でございます。
これから徐々に気温は上昇、湿度も上昇、次に来る季節と言えば梅雨〜夏。
梅雨に入れば、もう夏になってくれと思うんですが、夏は夏で暑いもんねぇ…。
とか、こんなこと毎年言ってるんですが、ずっと死ぬまで夏は暑いんでしょうねぇ(笑)
わたくし4月生まれで、生まれて3ヶ月後に、初めての夏が来たわけですから、今年で51回目の夏を迎えるんですよね。
後、何回、夏を迎えるか分かりませんけど、この繰り返しが人生なんだよね。
とか、哲学的な雰囲気を醸し出してますが、今日はそんな哲学チックなお話でもひとつ…。
つい先日、ブログでこんな記事を書きました。「脳内映像」
この話は、AIの技術を駆使し、脳内を映像化しちゃおうって話なんですけど、詳しくは読んで。
で、今日の話に繋がる部分は、ここで書いてた「死の定義」って部分なんですよ。
一応、「死」とは臨床的には、「自発呼吸の停止」「心拍の停止」「瞳孔散大」の三つで決定しています。
これを「死の三兆候」と呼んだりしてるんですが、ここにいわゆる「脳死」って概念はありません。
では、「脳死」ってどういう定義かと言うとこれはあくまでも「臓器移植法」における定義付けであり、そもそもの「死」ではなかったりするって話をしてたんですが、今日はそこからさらに突っ込んだ話でもしてみようかと思います。
では、「臓器移植法」における脳死の定義として、「大脳および脳幹(中脳、橋、延髄)の不可逆的な停止」って表現があります。
今日はこの辺にスポットを当てたいんですが、「不可逆」という言葉の中には、もう元のような状態には戻らないって意味があります。
ですから、簡単に言うと「脳」がもうもとには戻らない状態だから、ヒトとしての機能を果たせなくなる。
って意味合いなだけで、決して死んではないんですよ。
死んでないからこそ、臓器を移植できたりするわけで、そこらへんの線引きは非常にデリケートだと思います。
例えば、患者が臓器移植をしたいという意思表示のある人だった場合、脳死の段階で「移植」にうつり、そこで完全な「死」を迎えます。
ね。もうすでにややこしいでしょ?
しかも、ここ数年、人が死んでから脳細胞が劣化ゆえに復活できなくなる地点を通過するまで、数日かかるという事が証明されてきました。
では、その人は死んでないのか?
となると、厳密に言えば「死に向かっている」状態と言えるかもしれません。
実はヒトの細胞は、人の死である心停止に対して、これまで考えられてきた以上にずっと柔軟なようで、ワシントン大学のピーター・ノーブルって教授は、2017年にマウスとゼブラフィッシュの実験で、死後も1063個の遺伝子が活動したままであることを発見しています。
しかも、その一部は死後最大4日間その状態で、活発になったものすらあったといいますから、まだ「死んでない」と言えなくもない。
死後24時間後にサンプルを採取すると、遺伝子の転写が増えている事があるらしいですから、驚きです。
ノーブル教授らは、特定の動物細胞が死後、数週間生きていることを発見しました。
この研究は、人は一斉に死ぬのではなく、異なる速度で各部分が徐々に死んでいくことを示唆しているわけですよ。
なぜ細胞によって死への弾力性が異なるのか確かなことは分かってはいません。
でも、最近の研究では、終末医療期の患者4名の生命維持装置を外し、その後の経過を観察したところ、死亡が診断(瞳孔散大、脈拍停止、心停止)されてから10分未満の間、デルタ波バーストが持続されたことを1名で確認したという報告もあります。
つまり、この1名は、通常深い睡眠時に検出される脳の電気活動を「死んでから」も行っていたわけです。
この現象が、臨死体験に繋がってるんじゃないかという研究者もいるようで、少なくとも「死」を診断されてからも「意識」がある可能性は否定できないようです。
難しい話ですが、これからいわゆる再生医療の技術が向上していく中で、細胞レベルの生存でも復活させることが出来るかもしれないわけですよね。
クローン技術がもっと安定的に確立すれば、「死」を迎えてからでも、最後の細胞からまた復活するって事も可能になるわけです。
では、果たしてこれを「医療」と呼んでいいものかどうか…。
死の三兆候を迎えた人でも、生きている細胞が一つでもあれば、そこから復活させることが出来るとしたら、もう人には死はなくなってしまいます。
そして、復活させるだけの技術が確立してしまったら、復活させないということは「殺す」ってことになりはしないかい?
今の医療でも、手を尽くせる間は、どんな状況であれ、患者を生かそうとするでしょう。
それと同じ事ですもんねぇ…。
こう考えると、これ以上の医療技術の向上は、何か破滅へむかってる気がしてならない院長でした。
な。哲学的やったやろ?
こういう話になるといつも言ってますが、寿命を延ばしすぎるのはしんどいと思うんですけどねぇ…。
前にも言いましたけど人生50年なら、年金の心配もせんでよかったんやけどねぇ(笑)
こうも寿命が延びたら、可能な限り働かんとアカンやんねぇ…
あーしんど(笑)
ではまた〜
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院