臨死体験と走馬灯
2022年05月30日 [からだのこと]
お疲れ様です。院長です。
5月30日の月曜日でございます。
5月も大詰めでございます。
6月と言えば梅雨。
当分、鬱陶しい日々ですなぁ。
では今日のネタですが、つい先日このブログでも書きましたが、今日は臨死体験のお話しです。
これまでの調査によると、心停止の状態から蘇生した人の4〜18%が臨死体験を経験したと報告されています。
ですが、科学的にこの概念は明確に定義されていないのも事実です。
ですがようやく今回、医学から神経生理学まで幅広い分野の科学者が、死の研究に関する新たなコンセンサス・ステートメントを発表しました。
このたび発表された査読付き論文(査読を通過した信頼性の高い論文のことです。査読制度を設けていない雑誌の論文よりも、査読付き論文の方が客観的な評価は高くなります。)では、死と臨死体験について、専門家たちが基本的な意見の一致をみたと表明しています。
それによると、臨死体験は幻覚とは違うそうで、臨死体験は、明確な認知プロセスで、空想の産物とは言い切れないそうなんです。
臨死体験と言えば、いわゆる「走馬灯」のように人生を振り返るとかもいますが、基本的には解明され切ってない部分が多かったんですね。
このブログでは、カナダの研究チームが、男性患者の死の前後30秒間の脳の活動を、史上初めて記録することに成功したってな話を紹介したこともありますけど、これも偶然の一例だけなので確定的なものとは言えません。
今回の研究は、死の科学的研究に関する初の査読付き論文であり、この研究領域における問題と争点を特定を目的としており、潜在的メカニズム、倫理的意味、体系的調査のための方法論を考察したものなんだそうです。
彼らが同意していることのひとつは、人が死んだその瞬間に、生理的、あるいは認知的なプロセスが実際に終わるわけではないということです。
それは、臨死体験がこれまで言われてきたような幻覚ではなく、明確な認知プロセスであるからだといいます。
「脳細胞は、心臓が止まって酸素が行きわたらなくなっても、数分間はとりかえしのつかないようなダメージは受けません」と、ニューヨーク医科大学グロスマン校の救命救急診療・蘇生研究部長のサム・パルニア氏は語っています。
「脳細胞は、数時間かけて徐々に死んでいくのです。
そのため、死に関連して起こる生理的、精神的な出来事を客観的に研究することが可能になりました」
臨床的な死は、心臓の拍動が停止したときと定義されていますが、このたびの研究が明らかにしたように、脳が心臓と同時に活動を停止するわけではありません。
そのため、人が死んだ後に脳内でなにが起こっているのかを研究することができるわけなんです。
死んでもなお、脳内でガンマ波と電気的スパイク波の活動が見られ、これは意識が高揚した状態を示しているそうです。
それでは、こうした死後の脳内活動と幻覚との違いはなんなんでしょう?
専門家によると、臨死体験後に人々が思い出す体験は、幻覚や錯覚、薬物による幻とは違うと言います。
こうした臨死体験や生還体験は、特定の物語の横糸によって定義され、蘇生した後にポジティブな心理的成長をもたらすことが多いんだとか…。
専門家の意見が一致しているもうひとつのことは、私たちは死というものを、例えば、心臓が止まるという一瞬の出来事として考え続けることはできないということです。
心臓が止まることは、死、そのものの別の段階なのだと考えられます。
心停止は死をもたらす病、または出来事の最終段階ですが、心肺機能蘇生法(CPR)が出現したことで、死というものが絶対的な状態ではないことをおしえてくれました。
むしろそれは、臨床的に死にかけても、人によっては元に戻る可能性があるプロセスなわけですね。
基本的に、命をオンやオフにするスイッチはありません。
死はプロセスで、心停止はそのプロセスの最後の瞬間のひとつという感じでしょうか。
それでも、それが真の最後というわけではありません。
その瞬間の後になにが起こるかは、相変わらず謎のままですし、死にかけている人がどのような思考を抱いているのかは、私たちは知る由もありません。
ですが、この研究は、その思考にはひとつパターンがあることを示していて、臨死体験が死にゆく人の単なる空想の産物だとは言い切れないところがあることを感じさせられます。
そうなると、やはり「走馬灯」のようにってヤツですかね。
これはパターン化するはずもないですし、空想の物でもないでしょう。
まぁ、死んでみないと確実な事は分からないわけですから、難しいっちゃ難しい研究でしょうけど、徐々に明らかになってきている感はありますね。
そこまで興味もないけど…(笑)
真実は、自分が召される時に分かりますからね。
ではまた〜。
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院
5月30日の月曜日でございます。
5月も大詰めでございます。
6月と言えば梅雨。
当分、鬱陶しい日々ですなぁ。
では今日のネタですが、つい先日このブログでも書きましたが、今日は臨死体験のお話しです。
これまでの調査によると、心停止の状態から蘇生した人の4〜18%が臨死体験を経験したと報告されています。
ですが、科学的にこの概念は明確に定義されていないのも事実です。
ですがようやく今回、医学から神経生理学まで幅広い分野の科学者が、死の研究に関する新たなコンセンサス・ステートメントを発表しました。
このたび発表された査読付き論文(査読を通過した信頼性の高い論文のことです。査読制度を設けていない雑誌の論文よりも、査読付き論文の方が客観的な評価は高くなります。)では、死と臨死体験について、専門家たちが基本的な意見の一致をみたと表明しています。
それによると、臨死体験は幻覚とは違うそうで、臨死体験は、明確な認知プロセスで、空想の産物とは言い切れないそうなんです。
臨死体験と言えば、いわゆる「走馬灯」のように人生を振り返るとかもいますが、基本的には解明され切ってない部分が多かったんですね。
このブログでは、カナダの研究チームが、男性患者の死の前後30秒間の脳の活動を、史上初めて記録することに成功したってな話を紹介したこともありますけど、これも偶然の一例だけなので確定的なものとは言えません。
今回の研究は、死の科学的研究に関する初の査読付き論文であり、この研究領域における問題と争点を特定を目的としており、潜在的メカニズム、倫理的意味、体系的調査のための方法論を考察したものなんだそうです。
彼らが同意していることのひとつは、人が死んだその瞬間に、生理的、あるいは認知的なプロセスが実際に終わるわけではないということです。
それは、臨死体験がこれまで言われてきたような幻覚ではなく、明確な認知プロセスであるからだといいます。
「脳細胞は、心臓が止まって酸素が行きわたらなくなっても、数分間はとりかえしのつかないようなダメージは受けません」と、ニューヨーク医科大学グロスマン校の救命救急診療・蘇生研究部長のサム・パルニア氏は語っています。
「脳細胞は、数時間かけて徐々に死んでいくのです。
そのため、死に関連して起こる生理的、精神的な出来事を客観的に研究することが可能になりました」
臨床的な死は、心臓の拍動が停止したときと定義されていますが、このたびの研究が明らかにしたように、脳が心臓と同時に活動を停止するわけではありません。
そのため、人が死んだ後に脳内でなにが起こっているのかを研究することができるわけなんです。
死んでもなお、脳内でガンマ波と電気的スパイク波の活動が見られ、これは意識が高揚した状態を示しているそうです。
それでは、こうした死後の脳内活動と幻覚との違いはなんなんでしょう?
専門家によると、臨死体験後に人々が思い出す体験は、幻覚や錯覚、薬物による幻とは違うと言います。
こうした臨死体験や生還体験は、特定の物語の横糸によって定義され、蘇生した後にポジティブな心理的成長をもたらすことが多いんだとか…。
専門家の意見が一致しているもうひとつのことは、私たちは死というものを、例えば、心臓が止まるという一瞬の出来事として考え続けることはできないということです。
心臓が止まることは、死、そのものの別の段階なのだと考えられます。
心停止は死をもたらす病、または出来事の最終段階ですが、心肺機能蘇生法(CPR)が出現したことで、死というものが絶対的な状態ではないことをおしえてくれました。
むしろそれは、臨床的に死にかけても、人によっては元に戻る可能性があるプロセスなわけですね。
基本的に、命をオンやオフにするスイッチはありません。
死はプロセスで、心停止はそのプロセスの最後の瞬間のひとつという感じでしょうか。
それでも、それが真の最後というわけではありません。
その瞬間の後になにが起こるかは、相変わらず謎のままですし、死にかけている人がどのような思考を抱いているのかは、私たちは知る由もありません。
ですが、この研究は、その思考にはひとつパターンがあることを示していて、臨死体験が死にゆく人の単なる空想の産物だとは言い切れないところがあることを感じさせられます。
そうなると、やはり「走馬灯」のようにってヤツですかね。
これはパターン化するはずもないですし、空想の物でもないでしょう。
まぁ、死んでみないと確実な事は分からないわけですから、難しいっちゃ難しい研究でしょうけど、徐々に明らかになってきている感はありますね。
そこまで興味もないけど…(笑)
真実は、自分が召される時に分かりますからね。
ではまた〜。
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院