2024年10月10日 [色々なこと]
ドイツで脇差し
お疲れ様です。院長です。
10月10日の木曜日でございます。
今日はじゅうじゅうカルビの日だそうです。
では元気にネタいきましょう。
なんでも、17世紀の日本の「脇差」が、ドイツで発見されたんだとか…。
ドイツ、ベルリンの歴史地区モルケンマルクトで、かつて地下室だった場所の発掘中に驚くべき発見があったそうなんです。
発見当初は第二次世界大戦時の軍事遺物だと思われていましたが、江戸時代の日本の短刀、つまり脇差(わきざし、わきさし)であることが判明したんです。
このようなものがどうやってベルリンにたどり着いたのか、この発見がベルリンとの隠された歴史的つながりについてなにを明らかにしてくれるのか、好奇心を刺激する遺物がさまざまな憶測を呼んでいるわけです。
ベルリン州立博物館によると、この発見があったのは2022年冬のことで、モルケンマルクト地区シュトララウアー通りの発掘作業を行っているときだったそうです。
昔は現在よりも狭かったこの通りには、第二次大戦中に破壊されるまでは住宅や商業施設がいくつも建ち並んでいました。
現在ではその面影はほとんどありませんが、かつての地下室は現代都市景観の下に埋まったままだったようなんです。
がれきに埋まった地下室跡からは、手綱、あぶみ、くつわ等の馬具など、軍用品だったとおぼしき遺物が発見されました。
これらの中にひどく腐食した刀剣があったわけなんです。
発見当初、これは第二次世界大戦時軍事パレード用のサーベルだと考えられていました。
ですが、ベルリンの先史・初期歴史博物館がさらに調査・修復を行ったところ、剣の正体が明らかになったわけなんです。
この剣は日本の侍が長い刀と共に身に着けていた脇差でした。
柄は熱のせいで部分的に溶けていましたが、木製の構造部分が残っており、エイの皮と布が巻かれていたそうです。
柄の腐食した部分の下に日本の七福神のひとり、大黒天をかたどった小さな突起が見つかったそうです。
大黒天は繁栄と幸運のシンボルで、いつも小槌と米袋を持っているため、すぐにその正体がわかります。
脇差しと大黒天ってちょっとイメージが違いすぎますが、まぁ、日本のものなんでしょうね。
さらに鍔には、熱で少し溶けてしまっていましたが菊と水の線をモチーフにした装飾が見つかり、この刀が日本で作られたことが濃厚になりました。
調べたところ、17世紀から19世紀の江戸時代のものであることがわかりました。
さらに、修復前のX線撮影で驚きの事実も判明しました。
実はこの刀、もともとはもっと長いもので、ある時点で短くされたことがわかったそうなんです。
柄はオリジナルの刀についていたものではなく、柄に開けられているふたつの穴のうち、ひとつだけを使ってを後から取りつけられたものだったそうなんです。
これは、この刀が脇差として作り変えられて再利用されたことを示しています。
刃の部分は柄よりも古いもので、16世紀にさかのぼる可能性があるという話です。
では、日本の脇差がドイツの首都に運ばれた経緯について、興味深い疑問が浮かび上がります。
日本が鎖国をしていた時代に、通常なら高官や侍だけしか持てないはずのこうした見事な武器が、どのようにして遥々、ドイツ・ベルリンまで旅するはめになったのでしょうか?
考えられる説明のひとつは、19世紀にヨーロッパを訪れた日本の外交使節団が持参した贈答品だったというものです。
1862年の竹内使節団と1873年の岩倉使節団は、ドイツを含めた西洋列強との関係を深めることを目的にした重要な外交活動でした。
脇差が見つかったモルケンマルクト地区は、これら使節団が国王ヴィルヘルム1世(のちの皇帝)に迎えられたベルリン王宮に近いことから、これら使節団となんらかのつながりがある可能性を示しています。
ですが、この脇差の正確な出どころとシュトッラウアー通りに住んでいた元住民との関連については、今のところ推測の域を出ていません。
モルケンマルクト地区での思いがけない脇差の発見は、ベルリンの通りの下に眠る豊かな歴史の積み重ねを浮き彫りにしてくれそうです。
ベルリンの地面の下で発見されるのを待っている驚くべき遺物がまだまだあるのではないかと思わせてくれますねぇ。
まぁ、歴史ロマンは、結局答えが出ないですからそこがまた良いのかもしれませんね。
日本とドイツってのにも、何か因縁めいたものを感じます。
ま、そこまで歴史も興味ないんですけど(笑)
ではまた〜。
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院
10月10日の木曜日でございます。
今日はじゅうじゅうカルビの日だそうです。
では元気にネタいきましょう。
なんでも、17世紀の日本の「脇差」が、ドイツで発見されたんだとか…。
ドイツ、ベルリンの歴史地区モルケンマルクトで、かつて地下室だった場所の発掘中に驚くべき発見があったそうなんです。
発見当初は第二次世界大戦時の軍事遺物だと思われていましたが、江戸時代の日本の短刀、つまり脇差(わきざし、わきさし)であることが判明したんです。
このようなものがどうやってベルリンにたどり着いたのか、この発見がベルリンとの隠された歴史的つながりについてなにを明らかにしてくれるのか、好奇心を刺激する遺物がさまざまな憶測を呼んでいるわけです。
ベルリン州立博物館によると、この発見があったのは2022年冬のことで、モルケンマルクト地区シュトララウアー通りの発掘作業を行っているときだったそうです。
昔は現在よりも狭かったこの通りには、第二次大戦中に破壊されるまでは住宅や商業施設がいくつも建ち並んでいました。
現在ではその面影はほとんどありませんが、かつての地下室は現代都市景観の下に埋まったままだったようなんです。
がれきに埋まった地下室跡からは、手綱、あぶみ、くつわ等の馬具など、軍用品だったとおぼしき遺物が発見されました。
これらの中にひどく腐食した刀剣があったわけなんです。
発見当初、これは第二次世界大戦時軍事パレード用のサーベルだと考えられていました。
ですが、ベルリンの先史・初期歴史博物館がさらに調査・修復を行ったところ、剣の正体が明らかになったわけなんです。
この剣は日本の侍が長い刀と共に身に着けていた脇差でした。
柄は熱のせいで部分的に溶けていましたが、木製の構造部分が残っており、エイの皮と布が巻かれていたそうです。
柄の腐食した部分の下に日本の七福神のひとり、大黒天をかたどった小さな突起が見つかったそうです。
大黒天は繁栄と幸運のシンボルで、いつも小槌と米袋を持っているため、すぐにその正体がわかります。
脇差しと大黒天ってちょっとイメージが違いすぎますが、まぁ、日本のものなんでしょうね。
さらに鍔には、熱で少し溶けてしまっていましたが菊と水の線をモチーフにした装飾が見つかり、この刀が日本で作られたことが濃厚になりました。
調べたところ、17世紀から19世紀の江戸時代のものであることがわかりました。
さらに、修復前のX線撮影で驚きの事実も判明しました。
実はこの刀、もともとはもっと長いもので、ある時点で短くされたことがわかったそうなんです。
柄はオリジナルの刀についていたものではなく、柄に開けられているふたつの穴のうち、ひとつだけを使ってを後から取りつけられたものだったそうなんです。
これは、この刀が脇差として作り変えられて再利用されたことを示しています。
刃の部分は柄よりも古いもので、16世紀にさかのぼる可能性があるという話です。
では、日本の脇差がドイツの首都に運ばれた経緯について、興味深い疑問が浮かび上がります。
日本が鎖国をしていた時代に、通常なら高官や侍だけしか持てないはずのこうした見事な武器が、どのようにして遥々、ドイツ・ベルリンまで旅するはめになったのでしょうか?
考えられる説明のひとつは、19世紀にヨーロッパを訪れた日本の外交使節団が持参した贈答品だったというものです。
1862年の竹内使節団と1873年の岩倉使節団は、ドイツを含めた西洋列強との関係を深めることを目的にした重要な外交活動でした。
脇差が見つかったモルケンマルクト地区は、これら使節団が国王ヴィルヘルム1世(のちの皇帝)に迎えられたベルリン王宮に近いことから、これら使節団となんらかのつながりがある可能性を示しています。
ですが、この脇差の正確な出どころとシュトッラウアー通りに住んでいた元住民との関連については、今のところ推測の域を出ていません。
モルケンマルクト地区での思いがけない脇差の発見は、ベルリンの通りの下に眠る豊かな歴史の積み重ねを浮き彫りにしてくれそうです。
ベルリンの地面の下で発見されるのを待っている驚くべき遺物がまだまだあるのではないかと思わせてくれますねぇ。
まぁ、歴史ロマンは、結局答えが出ないですからそこがまた良いのかもしれませんね。
日本とドイツってのにも、何か因縁めいたものを感じます。
ま、そこまで歴史も興味ないんですけど(笑)
ではまた〜。
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院