2024年03月13日 [色々なこと]
コペルニクスの墓
お疲れ様です。院長です。
3月13日の水曜日でございます。
3月もここまでくると春感が随分出てきますな。
ま、急に寒くなったりしますから、注意は必要ですけどね。
では今日もネタにいきましょう。
今日はちょっとコペルニクスにまつわるお話しです。
ニコラウス・コペルニクスって方をご存知でしょうか。
名前をきいたことはあるって人が多いんではないかと思いますが、彼は16世紀に「地球は太陽の周りを回っている」と主張した天文学者です。
真のルネッサンス人であり、数学者、エンジニア、作家、経済評論家、そして医師でもあったそうです。
コペルニクスは1543年にポーランドのフロムボルクで死去し、地元の大聖堂に埋葬されました。
ですがその墓の正確な位置は、何世紀もずっとわからなくなっていたんだそうです。
ニコラウス・コペルニクス、ポーランド語でミコワイ・コペルニクは、1473年にポーランドのトルンで、地元の商人の家に生まれた4人きょうだいの末っ子でした。
父親の死後、おじがコペルニクスの教育の責任を担いました。
若きコペルニクスは、最初は1491年から1494年までクラクフ大学で学び、のちにボローニャ、パドヴァ、フェラーラなどイタリアの大学で学んだそうです。
医学、教会法、数理天文学、占星術を学んで、コペルニクスは1503年に帰国しました。
それから、ワルミアの領主司教で影響力の強いルーカス・小ヴァッツェンローデのもとで働き始めました。
コペルニクスは医師として働きながら、数学の研究も続けました。
なんでも当時は、天文学と音楽はどちらも数学の一分野だと考えられていたんだそうです。
この時期、コペルニクスはふたつの大きな経済理論を定式化しました。
1517年、貨幣数量説を編み出し、これはのちにジョン・ロックやデビッド・ヒュームによって再び明確化され、1960年代にミルトン・フリードマンによって普及しました。
1519年、さらにコペルニクスは、現在では「グレシャムの法則」として知られる、貨幣の流通と評価に関する貨幣原理の概念を導入しました。
そしてコペルニクスの科学への貢献の要は、彼の革新的な宇宙モデルでした。
これまでの主流な宇宙モデルは、地球は宇宙の中心にどっかり静止しているというプトレマイオスの「天動説」でしたが、コペルニクスは、地球とほかの惑星が太陽のまわりを回っているという、当時としてはぶったまげるような真逆の説を展開したわけなんです。
さらにコペルニクスは、太陽と地球の距離を表すことで、惑星軌道の大きさを比較したりもしました。
コペルニクスは、自分の大胆な説が教会や学者たちにどのように受け入れられるか、戦々恐々としていました。
そのためか、代表作である『天球の回転について』(DeRevolutionibus Orbium Coelestium)は1543年に亡くなる直前に出版されたそうです。
この研究書の出版は、宇宙に関するわたしたちの理解を決定的に変える画期的な舞台となり、コペルニクスの死後20年以上たってから生まれたガリレオのような未来の天文学者たちに道を切り開いたわけです。
で、話は戻って、コペルニクスの墓ですが、そもそもこのフロムボルク大聖堂は、100人以上の人たちの安息の地になっていて、そのほとんどが名もない墓の下で眠っているそうなんです。
コペルニクスの遺骨は、16世紀から17世紀にさかのぼって調べても特定できていなかったそうなんです。
フランス皇帝ナポレンオンも、1807年のアイラウの戦いの後、調査を試みたがうまくいかなかったそうなんです。
なんでも、ナポレオンはコペルニクスを博識家、数学者、天文学者として高く評価していたんだとか…。
で、2005年、ポーランドの考古学者グループが調査に乗り出しました。
フロムボルク大聖堂の司教座を務めていたコペルニクスは、在任中に担当していた大聖堂の祭壇近くに埋葬されたはずだと主張する歴史家ジェルジー・シコルスキーの説が大きな鍵になりました。
祭壇近くから13の人骨が見つかり、その中に不完全ですが60代から70代の男性のものがありました。
この人骨がコペルニクスなのではないかとされたわけですが…。
頭蓋骨は、復顔の基礎として使われました。
古い遺骨の特定にはたいてい、形態学的な研究に加えてDNA分析が使われます。
コペルニクスのものとされる遺骨の場合、歯の保存状態が良かったため、遺伝子の特定は可能でした。
ですが、元々のコペルニクスのDNAを示すものが見つかりませんでした。
ですが2006年、DNAを比較できそうな新たな試料が浮上したんだそうです。
それは、コペルニクスが長年使っていた天文参考書のページの間に髪の毛がはさまっていたことがわかったそうなんです。
この参考書は、17世紀半ばにスウェーデンがポーランドに侵攻したときの戦利品として、スウェーデンに持ち込まれていたものだそうで、現在は、ウプサラ大学のグスタヴィアヌム博物館に所蔵されているものです。
この書物を詳しく調べたところ、数本の毛髪が見つかり、この本をおもに使っていたコペルニクス自身の髪の毛の可能性が高いと考えられたわけです。
これら毛髪は、祭壇の墓から回収された歯や骨のDNAと比較するための、かなり見込みの高い参照試料だと期待されました。
そして、比較の結果、歯と骨両方のミトコンドリアDNAが毛髪のものと一致し、祭壇から出てきた骨はコペルニクスのものであることを強く裏づけたと…。
考古学的発掘、形態学的研究、高度なDNA分析など、複数の分野にわたる研究によって、説得力のある答えが得られたことになりますな。
フロムボルク大聖堂の聖十字架祭壇近くから発見された遺骨は、ニコラウス・コペルニクスのものであることはほぼ確定的と言えるでしょう。
実にコペルニクスが亡くなって460年以上の月日を得て、ようやく墓のありかが判明したわけです。
この画期的な発見は、科学史上もっとも影響力のあった人物のひとりが眠る場所を特定しただけでなく、歴史的なデータの裏づけとなる現代の科学的手法の奥深さと緻密さを示しています。
なかなかロマンあるお話しですねぇ。
てか、DNA鑑定すごいな(笑)
ではまた〜。
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院
3月13日の水曜日でございます。
3月もここまでくると春感が随分出てきますな。
ま、急に寒くなったりしますから、注意は必要ですけどね。
では今日もネタにいきましょう。
今日はちょっとコペルニクスにまつわるお話しです。
ニコラウス・コペルニクスって方をご存知でしょうか。
名前をきいたことはあるって人が多いんではないかと思いますが、彼は16世紀に「地球は太陽の周りを回っている」と主張した天文学者です。
真のルネッサンス人であり、数学者、エンジニア、作家、経済評論家、そして医師でもあったそうです。
コペルニクスは1543年にポーランドのフロムボルクで死去し、地元の大聖堂に埋葬されました。
ですがその墓の正確な位置は、何世紀もずっとわからなくなっていたんだそうです。
ニコラウス・コペルニクス、ポーランド語でミコワイ・コペルニクは、1473年にポーランドのトルンで、地元の商人の家に生まれた4人きょうだいの末っ子でした。
父親の死後、おじがコペルニクスの教育の責任を担いました。
若きコペルニクスは、最初は1491年から1494年までクラクフ大学で学び、のちにボローニャ、パドヴァ、フェラーラなどイタリアの大学で学んだそうです。
医学、教会法、数理天文学、占星術を学んで、コペルニクスは1503年に帰国しました。
それから、ワルミアの領主司教で影響力の強いルーカス・小ヴァッツェンローデのもとで働き始めました。
コペルニクスは医師として働きながら、数学の研究も続けました。
なんでも当時は、天文学と音楽はどちらも数学の一分野だと考えられていたんだそうです。
この時期、コペルニクスはふたつの大きな経済理論を定式化しました。
1517年、貨幣数量説を編み出し、これはのちにジョン・ロックやデビッド・ヒュームによって再び明確化され、1960年代にミルトン・フリードマンによって普及しました。
1519年、さらにコペルニクスは、現在では「グレシャムの法則」として知られる、貨幣の流通と評価に関する貨幣原理の概念を導入しました。
そしてコペルニクスの科学への貢献の要は、彼の革新的な宇宙モデルでした。
これまでの主流な宇宙モデルは、地球は宇宙の中心にどっかり静止しているというプトレマイオスの「天動説」でしたが、コペルニクスは、地球とほかの惑星が太陽のまわりを回っているという、当時としてはぶったまげるような真逆の説を展開したわけなんです。
さらにコペルニクスは、太陽と地球の距離を表すことで、惑星軌道の大きさを比較したりもしました。
コペルニクスは、自分の大胆な説が教会や学者たちにどのように受け入れられるか、戦々恐々としていました。
そのためか、代表作である『天球の回転について』(DeRevolutionibus Orbium Coelestium)は1543年に亡くなる直前に出版されたそうです。
この研究書の出版は、宇宙に関するわたしたちの理解を決定的に変える画期的な舞台となり、コペルニクスの死後20年以上たってから生まれたガリレオのような未来の天文学者たちに道を切り開いたわけです。
で、話は戻って、コペルニクスの墓ですが、そもそもこのフロムボルク大聖堂は、100人以上の人たちの安息の地になっていて、そのほとんどが名もない墓の下で眠っているそうなんです。
コペルニクスの遺骨は、16世紀から17世紀にさかのぼって調べても特定できていなかったそうなんです。
フランス皇帝ナポレンオンも、1807年のアイラウの戦いの後、調査を試みたがうまくいかなかったそうなんです。
なんでも、ナポレオンはコペルニクスを博識家、数学者、天文学者として高く評価していたんだとか…。
で、2005年、ポーランドの考古学者グループが調査に乗り出しました。
フロムボルク大聖堂の司教座を務めていたコペルニクスは、在任中に担当していた大聖堂の祭壇近くに埋葬されたはずだと主張する歴史家ジェルジー・シコルスキーの説が大きな鍵になりました。
祭壇近くから13の人骨が見つかり、その中に不完全ですが60代から70代の男性のものがありました。
この人骨がコペルニクスなのではないかとされたわけですが…。
頭蓋骨は、復顔の基礎として使われました。
古い遺骨の特定にはたいてい、形態学的な研究に加えてDNA分析が使われます。
コペルニクスのものとされる遺骨の場合、歯の保存状態が良かったため、遺伝子の特定は可能でした。
ですが、元々のコペルニクスのDNAを示すものが見つかりませんでした。
ですが2006年、DNAを比較できそうな新たな試料が浮上したんだそうです。
それは、コペルニクスが長年使っていた天文参考書のページの間に髪の毛がはさまっていたことがわかったそうなんです。
この参考書は、17世紀半ばにスウェーデンがポーランドに侵攻したときの戦利品として、スウェーデンに持ち込まれていたものだそうで、現在は、ウプサラ大学のグスタヴィアヌム博物館に所蔵されているものです。
この書物を詳しく調べたところ、数本の毛髪が見つかり、この本をおもに使っていたコペルニクス自身の髪の毛の可能性が高いと考えられたわけです。
これら毛髪は、祭壇の墓から回収された歯や骨のDNAと比較するための、かなり見込みの高い参照試料だと期待されました。
そして、比較の結果、歯と骨両方のミトコンドリアDNAが毛髪のものと一致し、祭壇から出てきた骨はコペルニクスのものであることを強く裏づけたと…。
考古学的発掘、形態学的研究、高度なDNA分析など、複数の分野にわたる研究によって、説得力のある答えが得られたことになりますな。
フロムボルク大聖堂の聖十字架祭壇近くから発見された遺骨は、ニコラウス・コペルニクスのものであることはほぼ確定的と言えるでしょう。
実にコペルニクスが亡くなって460年以上の月日を得て、ようやく墓のありかが判明したわけです。
この画期的な発見は、科学史上もっとも影響力のあった人物のひとりが眠る場所を特定しただけでなく、歴史的なデータの裏づけとなる現代の科学的手法の奥深さと緻密さを示しています。
なかなかロマンあるお話しですねぇ。
てか、DNA鑑定すごいな(笑)
ではまた〜。
京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院